2014年、16年目の日記です。
婆様と父ちゃんと私、老々家族のジタバタは、可笑しいやら哀しいやら、今の日本のひな形でしょうか(;^_^A

 

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 5月28日(水)

 婆様は5時前から起き出して、私たちの部屋にもテレビの音が聞こえて目が覚めました。気合い入っていたんですね。
 父ちゃんが眼科に連れて行き、10時前には眼帯が取れて戻ってきました。でもさすがに手術後、点眼薬が3種類を14回にも渡って付けなければならないし、飲み薬も3種類を同時に朝昼晩と。
 婆様はとても覚えられないので、父ちゃんから引き継いで今日が休みの私もせっせと付けてあげました。
 戻ってきたばかりの時は、まだ腫れがひかずに「見えない」と言っていましたが、午後あたりから次第に「目が見える、目が見える」と言い出しました。「いつ手術して、今日で何日で見えるようになったんだ?」なんて聞かれて「昨日して、今日、もう見えるんだよ」と答えますが、う〜ん、わかっているのかな?
 とにかく以前よりはかなりよく見えているようで、緑内障の欠損がかなりあるにしろ、視野のある部分ははっきり見えるようになったということですよね。ほんとによかったです。
 私は明日からまた仕事なので、父ちゃん、毎日の通院、よろしく頼みます。


 5月27日(火)

 昨日は父ちゃん、風邪気味で早く寝てしましたが、今日は婆様の白内障の手術なので付き添いです。(ヨメはとっとと会社)
手術前から日に6度くらいの点眼薬を処方され、時間が来ると婆様に目薬を注しに行き、今日の手術が終わり眼帯姿の婆様に「あ〜ん」と口を開けさせてお薬を飲ませてあげています。「赤ちゃんだ!」と一人ごちながら、苛立ちを見せることはありますが、基本、優しいです。
 料理(自分で食べるものだけですが)もし出したし、なんと洗濯して干していたのにはびっくり!
 完璧に主婦の座を脅かされていますが、私は大歓迎\(^\)(/^)/
 婆様だって憮然としたヨメにあつかわれる(介護される)よりずっと幸せだと思うので、ほんとにほんとにほんとにありがたいことです。

 で、婆様はこのところずっと「目が見えない、目が見えない」と言い続けていましたが「手術したらびっくりするほど見えるようになるってよ」諭しながら、でも緑内障も悪化していて、手術しても見えないかも、とは言えませんよねぇ〜
 明日眼帯が取れたら、どれだけ見えるようになるのでしょうか。とりあえず今よりはよくなってると願っています。


 5月26日(月)

 仕事が始まれば現実に追われるだけの日々ですが、まだまだ頭の中に余韻が残っていて、後半に差し掛かった自分の人生の軌跡を振り向いたりしています。
 なのにAさんからもBさんからも、例の切り抜きやイラストがいっぱいのお葉書でお礼状が届いて、お礼を言うのは私なのに4人揃っての写真を現像することすらしていない自分、また棘が自分を向き始めた気がします。
 それでもなんとか今夜やっと、先日の写真をエクセルで編集して印刷して、ちょっとは気の利いた言葉を添えて送れたらな、と思っています。

 ←これこそ40年前の写真ですね。それぞれ自作のベストスーツやサロペットを着て、Aさんのお住まいで記念撮影です。
 もちろん私もいます(^_^) 下段の左から二番目です。

 ↓そしてこれが40年後の写真です。ホテルで担当のとっても褒め上手な(健気なほど一生懸命ヨイショを探している)担当のお嬢様に撮っていただいたものです。

 今日会社でタブレット持ちの同僚に「とっていい日記を読ませて頂きました、親友に手紙を書きたくなりました。」言われ、有頂天になっています。
 同じ仕事に追われる主婦ですから、『やっと今なら、あの頃の・・』という気持ちは痛いほど分かるので、どうぞ今だからこそお手紙を書いて下さい、と申し上げました。
 

 5月23日(金)

 秋保温泉のホテル瑞鳳に行ってきました。秋田県人のイメージでは、秋保と言えば佐勘はまったく手がでないけど、いつか瑞鳳には行ってみたいというランクです。父ちゃんと二人なら他のホテルを選びますが、今回はちょっと違うメンバーなので最初から狙いをつけて頑張りました。3月に一旦予約をして、4月に安いプランに乗り換えて、料金は周囲のホテルと差はありませんでしたが、やっぱり建物はすごかったです。
 それというのも今回集まる4人は↓8日の日記でも触れていますが、思春期から抜け切れていない10代の最後に知り合い、闇雲にすがりつき、自分の気持ちを全部叩きつけて、それでも逃げずに受け取って貰っていたのに、いつの間にか音信不通になり30年以上連絡を取らなかった仙台在住の二人に、にかほに住んでいる私たち二人が会いに行くという、けっこう気合いの入った旅なのでした。
 仙台組は73歳のAさん、70歳のBさん、にかほは65歳のCさん、そして58歳の私D。それが1974.5年頃、一年だけ同じ教室で洋裁を勉強しましたが、Aさん、Bさんは官舎住まいの主婦で、知り合ったすぐからたくさんの教室のメンバーがそこを根城に青春(!!)を語っていたのだと思いあそばせ。
 その中でも私はダントツにAさんの暮らしに踏み込んでいました。お子さんがいらっしゃらないことをいいことに、ご主人がご在宅の時も平気で入り込み泊まり込み、結婚して其の1をおんぶして行ったこともある気がしますが、結婚以降は生活や時間に追われ、AさんもBさんも転勤があり、最後にあったのがいつなのか記憶がありません。其の2は見せたことがないと思うので、35年ぶりくらいでしょうか。Cさんは私ほど濃く入り込んではいないので、ほんとに40年ぶりくらいでしょう。(40年ほど前、Cさんのご自宅にクラスメート10人近い人数で泊めてもらったことを、今、思い出しました。若かったですね。)

 まぁこういうメンバーが集まれば、一瞬も会話が途切れるワケはないのですが、でもやっぱりただただ笑えるとは行かないワケがあるので、本当はここにさらすことははばかられる内容ですけれども、でも私の日記ですから、私の目線で昨日、一昨日の会話を思い出し、40年前を思い出し、書いてみようと思います、

 Cさんも私も出発時間が待ちきれず、結局約束の一時間前ににかほを出ました。今回は私の車です。宮城県でも秋保までならそんなに繁華街を通らないので、気持ちも楽、時間も楽でのんびり運転を始めました。
 そのうちCさんが「Aさんに謝らなくちゃならないとずっと思っていた」なんて話始めます。A家でのおうちパーティをドタキャンしたまま、その後に会うこともなく40年経ってしまったというのです。
 私は謝るというのではないけれど、あれだけたくさん世話になっていながら、最初は書いていた手紙もだんだん遠くなり、まったく音信不通になるとは、人としていかがなモノか、後足で砂を掛けて飛び去る鳥のようで、恩も義理も捨てた非人間のような気持ちをずっとずっと持っていたので、その気持ちはよく分かるのです。たぶん、昨年スーパーでばったり会って立ち話をし、Aさんと連絡を取ったCさんが、Bさんが定年後宮城に戻られて家を建て、被災されて家も車も全部流されていた、と聞かなければ、今回の企画もなかったし、悔恨をお墓まで持って行ったんだと思います。

 早くホテルに着き、ロビーで二人の到着を待ち、出迎えて半分照れながらオトナのご挨拶をして、全員もつれ込むように部屋に入り、いったいどこから話せばいいのかと思っていたら、さすがにまじめなCさんが「私、謝りたくて・・」と。でも40年も前の話「そんなことあった?」とAさん、ですが、でもね、そんな会話の中で渦中のBさんの綺麗なこと!!!!まず見た目が若い、衣装の色合いが鮮やか、髪型も以前と変わって素敵な栗毛色、指の爪も綺麗でピンクに染められ、足の指は真っ赤なペディキュアです。そして大きな目をきらきらさせて、話す姿、以前よりずっと魅力的なのよ、どうしましょう (^_^;)\('_') 
 私たちはもちろん、被災された重さを引きずっているものを思っていたし、そう思われているだろうからこそ一層磨きを掛けていらしたとは思うけど、それを超える美しさで、私は唖然です。
 Aさんはピンクを基調にした衣装で、妥当だけどちょっと辛辣な口調も声も以前とまったく変わらず、そのまんまです。

 話の内容は互いの近況報告から家族や子供達の成長や、昔の思い出や雑多でごった返していますが、そのまま食事に移動し、お風呂にも行き、とにかくずっとずっとしゃべりまくり、私だけが食事でビールを飲み、部屋に戻って持参の焼酎を飲み、毎度お馴染み酔っぱらってハイテンションの会話の内容、自分で忘れたくないことだけここに記して、これからの人生の免罪符にするつもりでこれを書いています。

 まず「恩返し」のこと。この恩返さない鶴の私に「別に私が恩を掛けたとか言うのじゃないけど、恩て言うのは当人に返さなくても、自分の周囲の人の面倒を見てあげれば、それが結局返したことになって、そうやって世の中が回っていくんんだと思うの。だから、あなたが今暮らしている中で、きっと私への恩は返しているはずよ」とAさんに言ってもらったこと。ずっと心の底に刺さっていた棘が抜けたような気がしました。
 そんな言葉の合間合間に「まさか本当にここまで引っ張り出されるとは思っていなかった」「もう一生会うことはないんだと思っていた」と、嬉しそうでも迷惑そうでもなく、そういう言葉を入れてくるAさん、それがいかにもAさんのままで、うん、きれい事じゃなくて言ってくれているんだろうなぁ、とむしろ感慨深いし。

 写真のスキャンのついでに兄のも撮った、と自分の携帯に送った↓あの画像を見せたら「あら、ほんとに○○○さんだ〜 Bちゃん、二人でDちゃんの家にお焼香に行ったわよね、主人に送ってもらって」とAさん。え?私覚えていない、でもきっとそんなことしてくれそうな二人だもの。(ちなみにCさんは兄の死は知らなかった。)
 そして「え??Dちゃんの弟さん、お祖父ちゃんになったの?え〜??信じられないわねぇ〜 時の流れねぇ〜〜〜〜」と、私たち既婚4人組なのに、孫が一人もいない実情にあえて直面。

 そして本来ならが5人目のメンバーになるはずだった、当時官舎のご主人たちの同僚を紹介され結婚したEさん、年は58歳で今は宮城県在住だけれど、結局声を掛けなかった理由は相性の相違ってこと(らしいです。)
 お孫さんも何人かいるし、ご主人の両親と自分の親も介護が必要な健康状態で、忙しくて誘うのが申し訳ないとい言いつつ、誘っても断れるのが分かっているから誘わない、とか。実は私も彼女の仙台での結婚式に唯一出席しているのですが、その後はまったくつき合いがなくて「別に無理に誘わなくても」と平気で言い放ちました。少なくても恩を受けながら返していない棘は刺さっていなかったので。
 そして行き着くところは、「彼女はすごく現実的でマトモ。じゃ、ここのメンバーは全員変人ってこと??」って大笑い。(いえいえ、Cさんだけは変人ではありません。でも真面目過ぎるところが変人かな?Aさんも「Cちゃんはマジメだから」を連発です。)
 でも類友でなくても目が離せないのは、結婚のいきさつの責任を感じるから、とか。でもそれがAさんの優しさでしょ?

 Cさん、Bさんに311の時を聞きます。「うん、私、全部見てたの。あ、ウチの車が流れて行く、家が流される、って。でも何も感じないのね。ただ現実を見てるだけ。」Aさん、私にこっそり「実はBーにその時の話、まだ聞いたことがないんだ、とても話してって言えなくてね」と。でも聞く方も話す方も、時間が経ったということでしょうか。
 Bさんのご主人はマメな方で(もちろん当時お顔じは存じ上げておりましたよ。息子さんたちも)非常袋に権利書とか登記簿とか入れておかれて、ずっと渡していたお小遣いも引き出しに入れて「お前達が使ってもいいよ」と言っていたので、その非常袋と現金、避難していた時にものすごく役に立ったそうです。
 でも避難当時の話は、やっぱり当人だからできる内容で、でも彼女が語ると全部弾んでいるように聞こえるから不思議。だけど、「ほんとによくしてもらって、周囲にはとくかく感謝してもしきれないけど」やっぱりメンタルが壊れて涙ばかり出るようになってしまった、とおっしゃいっていました。当たり前ですよね。

 「今は当時ほどではないけれど・・あ!!」といきなりバッグから扇子を取り出してバタバタ扇ぎ出します。「どうしたの?」「更年期障害よ!あ===暑い!!!」
 そうでした、Bさん、30代で子宮と卵巣を摘出されているんでしたね。本荘にいた頃で、知っていました。「あれからずっと障害が出てるのよ。でも治療はまったくしてないの。」う〜ん、全摘されているBさんより更年期障害の症状の強い私の卵巣ってナニ??よっぽど機能が悪いんでしょうか。「当時もあんなに生理痛がひどくて、うちの主人がDちゃんの家まで送って行ったことがあったわよ」ってAさん、それも覚えていないの。そんなふうにご夫婦ともにたっくさんたっくさん世話をして貰っていたの。

 Aさんはついにお子様に恵まれませんでした。当時は諦めたギリギリの時期で、Aさんにも更年期障害の症状が出ていたんですよね。Cさん、「うん、知ってる、Aさん、らっきょのような汗をかいていたものね」。らっきょのような汗って、あなた(;^_^A 
 Aさんは10年ほどで収まりCさんはほぼスルー 私は40代から始まり、60代間近でも一層動悸に悩み、でもBさんが70代になってもこれなら、私も終わる時期は望めないかも、ですね。「でも子供ができたじゃない、ほんとにできてよかったわね」ってAさんが言ってくれました。ありがとう、本当にそうです。こればかりは神様に感謝です。(孫はいないけど (^_^;)\('_')  )

 AさんとBさん、当時も微妙にセットだったけれど、Aさんは宮城、秋田の移動が多かった気がしますが、Bさんは愛知とか九州とか全国を転勤していたので、すれ違うことも多かったはず。でもその間ずっとずっと手紙の応酬があったそうで、(その前は交換日記だそう(^m^))それが40年分以上Aさんの手元にあるそうです。(Bさんのは全部流れてしまいました。)
 日記交換のきっかけとか誘い方(?)とか、二人の掛け合いに、本当にこの出会いって奇跡なんだと感じました。二人が続くには性格と相性が交錯したってことでしょう?よくこんな偶然を天は下さいましたね。私が昨年出した手紙に貰った返事には、たくさんの切り抜きが貼ってありましたが、二人の書簡はみんなこんな風なんだそうで「これ、展覧会でもして公開したいくらいだわ」とおっしゃっていましたが、本当に是非実現させてください。

 酒が入ったのは私だけで、朝も一番寝坊(;^_^A でもたくさん飲んだワリには残らず朝風呂、朝食バイキングもバリバリで、でも「夕べは一番しゃべっていたわよ」というCさんの言葉にさもありなんと、ちょっと恥ずかしい私。
 チェックアウトしてホテルを出るとき、Bさん、大きくハグしてくれました、嬉しかった(^^;ゞ

 私的にはそんなに大きな問題をクリアしての逢瀬ではなかったので、また企画したらみんなと会えそうですが、でも本当は「じゃ、また会いましょう」ということがどんなに難しいことか知っています。日々の暮らしの中から、そんな時間を切り取って合わせるって、なんか、神様の応援が必要な気がしますから。
 きっと今回は自分たち以外の何かも応援してくれて、会えて話せたんだと思います。本当にもし次も、とみんなが思ったら、またきっと偶然が味方してくれるでしょうから、その時を信じて心の隅っこにしまっておきましょう。
 いい時間をありがとう。 


 5月15日(木)

 田植えが終わりました\(^\)(/^)/ さすがに間が空いたので父ちゃん一人で植えてくれた日もあって、昨日の休み初日だけで終わりました。けっこう夕方まで掛かって、よくできたと二人で驚いたくらいです。
 今日はカラダ中がギシギシ言っています。あちこち痛くて、田植え用具はいろいろ進化してカラダに優しくはなっていますが、老化には追いつけない模様 (^_^;)\('_') 
 でもほっとしました。なんだかんだ、我が家の飯の種ですもんね、一緒にできて嬉しいです。

 さてこんな農繁期の中、仕事帰りに同僚宅に伺い、自慢の庭木を見せて貰いました。全部ご夫婦で植えたり丹精されたものだそうです。花の名前や年代もいろいろ聴きましたが、すみません、私の頭からはポロポロとこぼれ落ちるので、撮らせていただ写真だけ載せましょう。夕方なのであまりうまく写っていませんが、すばらしかったですよ!庭中が花盛りで、本当に丹精の甲斐がありますね!

   
  

 ついでに2年目になった私の畑♪(でも今月と来月に婆様が白内障の手術をするので、また目がはっきり見えるようになったら、いろいろ手を出してはくれるんでしょうね。とにかく元気が一番だから、唯々諾々と受け入れましょう。)

    左上のもっさりと茂っているのは、昨年の春、見切り品で50円くらいで買った苗を植えたパセリです。なんとこんな私の畑で雪の下で冬を越し、薹(トウ)が立つでもなくぐんぐん育っています。隣のブロッコリーより大きいです。
 びっくりです。このままだと、木になっちゃうんじゃないかと (^_^;)\('_') 
 

 5月8日(木)

 今年一番に気温が上がり、風もない田植え日よりになりました。でもまだ早いのよね、周囲は誰も植えていなくて、今日の分は2時くらいに終わりました。(時間はまだまだあったけれど、次は来週なのでまだ代掻きしていないんだって。本気で私の休み待ちなのね (^_^;)\('_') )
 父ちゃんも60代になったし、私もあちこち痛いし、昨年までの非常時的仕事の仕方はやめて、苗がなくなったら田植機を止めて二人で取りに行こうと決めたので、気持ちも楽です。お天気も最高!時間もゆったりだったので、いい定休日と言えましょう。

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 そして夜、二年前くらいに買ったプリンターで、初めて昔の写真のスキャンに挑戦してみました。なにせ、定価なのに6000円程度、ほんとにコピーやスキャナーもできるの?と半信半疑だったのですが、やってみれば全然簡単でした。すっごいスね!日本の家電!
 実は今月の下旬に秋保の瑞鳳で4人切りのクラス会を行う予定なのです(^_^) 高校を出たあと一年だけ専修学校行っていた時のメンバーですが、S15年、18年、23年、30年生まれの年齢バラバラのクラス会で、二人はにかほ市、二人は宮城県在住で、その中のお一人が11311でお住まいを流されたと昨年知ったので、もしかして写真もなくなってしまったかもと、40年も前のアルバムを引っ張り出して慣れない操作も頑張っちゃったワケです。
 あとは加工やレイアウトして印刷しようと思っているのですが、そんな独身時代のアルバムを開いていたら、兄の写真がありました。
 1983年に逝ったのですが、その頃は病気で面影も変わってしまっていましたから、それよりも5年以上は前でしょうね。なんせ白黒でしたし。
 たまには身内も見ているのこの日記、これは誰かの法事かな?葛法だよね。春紀、まだ病気が出てない 顔をしてる、ちょっと切ないね。家族や親戚みんなに愛された春紀、ちょっとだけ思い出してね。

 


 5月7日(水)

 GWもすっかり終わってしまいましたね。桜も終わってしまいましたが、今を盛りの山々の萌えっぷりは桜を超える!といつも思っています(^^;ゞ
 婆様は今日はディで鳥海山のブルーラインの雪の壁を通って5合目の鉾立に行ってきたそうです。先月は勢至公園や仁賀保高原の土田牧場、西目のハーブワールドにも2回ずつは行っているし、象潟の道の駅や遊佐の道の駅、西滝沢(ここは目的地がわかりませんが)にも行ったと言っていまして、なんたって90歳の婆様が我が家で一番アクティブです。

 私は1日と2日が休みでして、1日は3Qカットに髪を切りに行き、80円を握りしめて自販機に向かったら、1000円のまま変わっていなくて、利用者の私たちはありがたいけど従業員の理容師さんもお給料は上がらないんだろうなぁ、なんて思いながら切ってもらいました。
 2日は基本うだうだ、ゲームと少し畑、思いついて餃子を作ったりポテトサラダを山ほど作ったり〜〜 
 3日からは仕事でしたが、其の1が単身でバスで帰省したので、夕飯くらいは手作りのものを食べてもらいたくていつもより張り切って、夜は毎度お馴染みの酒盛りで、疲れに拍車が(;^_^A
 4日の夜には最近ひどく痛む左の肘と両手を揉んで貰いましたが、う〜ん、母指CMの変形は右手より左手が強くて、もう稼働域が狭くなってました〜〜〜(ーー ) 肘のストレッチを教えてもらいましたが、整形の不具合とはダマシダマシ一生つき合うしかないですし、悪くはなってももう良くなることはないでしょうから、いろんな痛みにも慣れなくては、と覚悟です。
 5日は私が出勤後に帰ったようですが、婆様は孫との時間を堪能したでしょうかね。(4日にはふたりでドライブやランチをしたみたい(^_^) )

 世間様の暦と関係なく重たい仕事に追われ、やっと明日が一日休みなのですが、明日と14日、15日に田植えをするそうです。
あれ?それって全部私の私の休みじゃない??あれれれれ??私はいつ診療所に行ったらいいんだろ〜〜 (^_^;)\('_') 


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